大分昔のことなんですが、現在核実験で世界を騒がせている某北の国について、当時60代のご婦人からお話をきいたことがあります(その国が、某大国の大統領に『悪の枢軸』のひとつだと非難されていた頃です)。そのご婦人は、地方の農家の7人兄弟の末っ子で、中学を卒業してからすぐ東京に丁稚奉公に出されて、住み込みで働きながら専門職の資格を取得。さらには独立してから、定時制高校に通って高卒の資格を取ったという、大変苦労された方です。その方の某北の国評に、私は大変驚かされました。
「今の某北の国には本当に裏切られたと思っている。私の若い頃は、あそこは理想の国だった。出身で差別されることなく、貧富の差がない。皆が平等に仕事をもらえ、平等に賃金をもらえ、富をみんなで分配してみんなで仲良く暮らす国のはずだった。私はいつかあの国に移住したくて、一生懸命お金を貯めて、勉強もした。それなのに、今あの国がやってることは、上の一部の人達だけで富を独占。他の国からなんの罪もない人を誘拐したり、意見の違う人達を粛清したり。どうしてあんな国になってしまったんだろう?」
彼女は某北の国の現状を、本当に嘆いていました。かの国を「悪の権化」とばかり思っていた当時の私は、昔はそんな風でなかったと知って、本当にびっくり。
でも、冷静に考えてみればそうなんですよね。強力な理想(某北の国の場合は純粋な共産主義の実践)があって、それに共感してついていく人達がある一定以上いなければ、ひとつの国が出来るわけがない。戦後の混乱期から高度経済成長期への移行の時期には、本当に彼らの考え方が魅力的に映ったんだと思います。
最初は人間世界を侵食していく「悪の権化」のごとく描かれていた眼魔世界。しかし、先の大帝アドニスの建国の志と動機が明らかになるにつれ、真っ先に思い出したのが、上述したご婦人のお話。あれ?もしかして彼らは、最初は本当に魅力的な理想世界を作ろうとしていたんじゃないか?
それなのに、今の眼魔世界の空は昏く赤く染まり、荒廃したコンクリートの街の中に化物達が息をひそめるようにして生活している。王族の息子達は常になにかに苛立っていて、芸術や音楽を合理的でないものとして切り捨て、蔑む。少しも楽しそうに見えない陰気な世界。どうしてこんな世界になってしまったんだろう?
まずは全体を通して、私の憶測も含めながら、眼魔世界の歴史を振り返ってみます。
*眼魔世界の理想
アドニスの目指した理想は、争いのない、不老不死の世界。彼の動機は妻と息子の死。二度とこんな悲しい思いをしないよう、グレートアイという神の力を借りて、アドニスは眼魂に魂を閉じ込め、肉体は生命維持カプセルに保管、アバターを作ってそのなかに魂を入れて生活するという形で理想を実現させた。そして、グレートアイを他の人間に悪用されることがないよう、親友の科学者、イーディスがガンマイザーという門番を作って置いた。
不老不死は、命に限りがある人間が追い求める理想。
食料なども不要な世界なので、数少ない食料をめぐって争ったりすることもない。貧困に陥っても病死などの危険もないので、お金も絶対的に必要なものではなくなり、『生活』にお金を使う必要がなくなる。となると、人々は何にお金をつかうようになるのか?
今ワタクシの家計簿で生活費以外に何にお金を使っているのか確かめてみたら、交通費、通信費と洋服と化粧品、あとはウルフェスと映画と本とDVD、ガチャガチャフィギュアに使ってましたorz。まあいわゆる文化、芸術ってやつに浪費しているわけですね。ここにお金をたくさん使える人と使えない人の差が生じ、争いの原因になります。 そう考えると、芸術や音楽を禁じて、人々の興味を失わせることは、争いをなくすためには極めて有効な手段だったのではないかと。芸術論争なんかもなくなるし。
また眼魔世界では、王族や軍人を除いて、ほとんどが怪物のような姿のアバターだったのはなぜか。そうすることで、人々の統制を図っていたのかもしれません。つまり、世界の秩序を乱すような真似をすれば、人間のアバターを奪い、眼魔姿になるとか。そう考えると、眼魔達が妙に好戦的だったり、騎士のポリシーにこだわっていたり、音楽や画を描くことに興味を持っていたりするのも納得なのです。
このように、争いのない世界を維持するために、人々の「多様性」は奪われていったのではないかと。「平和な世界」を実現するために、世界はどんどん息苦しく、窮屈になっていきます。永遠に終わらない時間をなにをするでもなく、ただ消費していくだけ。
そして不老不死の世界は一見何不自由のないようにみえて、実は大きな欠陥がありました。人間世界側では龍とタケルの関係を通して何度も語られていたことなので、気づいている方も多いとおもいますが。
皆が不老不死である以上、世代交代がないのです。
アデルは100年たっても父の補佐の立場のままだし、イゴールはイーディスがいつまでたっても病気もせずに元気なので、長官の地位を得ることができません。新陳代謝が起きない。確かに安定はするけれど、変化らしい変化は起きない。ゆるゆる流れる時間のなかで、いつまでたっても同じ立場から動かない人達の心の中に、不満が澱のように溜まっていく。
たぶん、アドニスは100年以上眼魔世界を統治することで、その欠陥に気がついていたのではないかと。しかしいまさら、じゃあ皆で明日から不老不死やめようぜ!というわけにもいかない。
その気付きが、大帝の迷いにつながった。強い意志が揺らいだ。
グレートアイは強い意志を持つものにしか反応しない。そうこうしているうちに、完全な管理がされているはずの生命維持カプセルにほころびが生じた。不死であるはずの肉体が、どんどん朽ちていく。しかし、アドニス自身が迷いをもったままなので、修正をお願いしようにもグレートアイにアクセスできない。
そして、システムのほころびに焦ったアデル達が、不死のエネルギー資源を人間の魂に求めて、人間世界への侵攻を始めた。最初はイーディスも、システムを作った責任上、アデル側だったのでしょう。しかし、人間世界で龍に出会うことで、密かに人間世界に侵攻することなく、眼魔世界のシステムを救う道を模索し始めた。
イーディスは、まさか大帝自身に迷いが生じているためにグレートアイにアクセスできなくなっているとは夢にも思わず、自身の作ったガンマイザーが邪魔していると確信。アクセスするために強力な意志を持った魂を沢山集めれば、グレートアイにアクセスできるのではないかと考え、ゴーストシステムを考案。タケルに偉人達の魂を集めさせます。
一方、アデルの下で訓練を受けた軍人達、眼魔達は生き生きとしてきます。そりゃそうでしょう。いままで何もやることがなかったのが、政府公認のもと人間世界を破壊できる、命の心配なしにゴースト相手に存分にデスゲームを楽しめるのですから。最初の頃のジャベルなど、ひりひりする戦いの刺激を求めるあまり、アランの言うことをきかずに先走っちゃってます。
そんなこともあって、不老不死の世界を作ってしまった責任を感じている大帝は、彼らの暴走を強く止めることができなかった。しかし、自分たちの世界のために他の世界の命を踏みにじっても構わないと考えるアデルには、全てを任せるわけには行かないとも感じていたんじゃないかと。
それがアデルを祈りの間に近づけさせないという行動に繋がり、アドニスへの不信感を育て、クーデターを起こさせることになってしまった。
一方アランは、人間世界の侵攻を積極的に進めているものの、あちらの青空を美しいと感じていた。それは今の眼魔世界では異端として弾かれる感性。「多様性」の芽がアランの中にはあった。
アドニス「理想に心を殺されるな……自分の心に従え……自分の信じる道を進め……」
アドニスはアランの「多様性」に賭けた。
大帝の座についたアデルは、その強い意思でガンマイザーを味方につけ、人間世界で魂を効率良く集めるために、イゴールとともにDEMIAプロジェクトを推し進めます。誰にも邪魔されることなく、父のめざした不老不死の世界をふたたび実現できるはずだった。しかし、それをやっても誰も褒めてくれない。褒めてくれるのは、せいぜい自分が偉くなることしか頭にないイゴールだけ。父は死に、アランは離反、イーディスは裏切る。アリアですらアデルに対し、反逆の牙を剥いた。なんでも思い通りにできる大帝の立場のはずなのに、まわりはまるで思い通りにならない。誰もアデルを愛してくれない。
孤独を深めたアデルは、究極の人々の「多様性」の排除を思いつく。すなわち全員が自分になってしまえば、争いや哀しみのない世界になるはず。DEMIAプロジェクトで構築したネットワークを使用して、アデルは自分の究極の理想を実現しようとした。
しかし、タケルとアリア、アランの尽力により、自分が本当は家族に、父に愛されていたと知ったアデルの強い意思は崩壊。ガンマイザーを切り離そうとするも、時既に遅し。
彼の魂は、アデル自身の世界を憎む強い意思を学習したガンマイザーに取り込まれ、世界の破壊を始めます。タケルによってアデルの魂は解放されるも、こんどはガンマイザーはグレートアイすらも取り込んで、世界を破壊し始めた。強い強いアデルの憎しみの心が世界を滅ぼしていく。
それを止めたのは、タケルの皆に愛される力、愛する力だった。憎しみの力には愛の力を。
愛を象徴する技でもってガンマイザーを倒し、タケルはグレートアイに接触。グレートアイの心を動かしたのは、タケルの有限の命に対する強い愛着だった。
グレートアイ「だとすると、私のやった事は……」
アドニスの不老不死の願いを聞き届け、実現する手助けをしたグレートアイ。アドニスもグレートアイもよかれと思ってやったこと。しかしその結果、多くの人を不幸にしてしまった。もしかしたら、とても余計なことをしてしまったのかもしれない。グレートアイは、ガンマイザーの暴走によって奪われた命を元に戻すと、人間自身の立ち直る力を信じて、地球から立ち去っていく。
神のいなくなった眼魔世界の住民達は、全員が不老不死という「理想の世界」から、漸く解放された。
*悪意のない世界
こうして敵側の目線に立って振り返ってみると、驚くべきことに、ゴーストの世界には根っからの悪意が存在していなかったことがわかります。
最初は皆、よかれと思って始めたこと。が、それぞれの心のすれ違いや、立ち位置、価値観、優先順位の違いにより、善意が場合によっては誰かの害になってしまうことが、全編を通して描かれています。
アドニスの民を優先する善意が、アデルにとっては愛されていないと感じる害になったり。
グレートアイを守護するためにガンマイザーを作ったイーディスの善意が、地球を滅ぼしかけたり。
アデルの不老不死の世界を継続させようとする善意が、人間世界には害になったり。
マコト兄ちゃんのカノンを助けようとする善意が、タケルの生き返りの権利を奪う害になったり。
タケルのアデルを見捨てない善意が、アデルにとってはプライドをいたく傷つける害になったり。
グレートアイの不老不死を実現させた善意が、人々から食の楽しみを奪う害になったり。
考えてみたら、身の回りを振り返ってみても、本当の悪意というのはないのかもしれません。しかし、何かをよくしようとして始めたことが、結果的に思わぬ悲劇に繋がってしまうことはよくあります。
ここには、よかれと思うことでも、それを実行することで、他にどういう影響を及ぼすかをよく考えることが必要という教訓が含まれてます。また、自分ではよいことだと信じていても、怒りや憎しみを持ったままことにあたれば、悪い結果を招きやすいという教訓も、アデルの姿を通して語られています。が、そこを強調しすぎては、せっかくよいことをしようとする子供達を萎縮させてしまいかねない。
ここでゴーストの世界が優しいなと思うのは、「愛情」をベースに置くことで、たとえ悪い結果になったとしても、やり直しができる可能性をきちんと示していることです。
アデルは最期に父に愛されていると知って、心が救われた。
タケルの人々を愛する心が、ガンマイザーに壊された世界を救い、自分の身も生き返らせることになった。
マコトのカノンや仲間を愛する心をコピーした偽マコトが、マコト自身を救った。
タケルの有限の命を愛おしむ心が、人々を不老不死から解放した。
なにをキレイゴトを、と思う人もいるかもしれません。確かに実際には「愛は地球を救う」わけにはいかないことのほうが多いです。
しかし、こどもにむけたメッセージだからこそ、こういったキレイゴトが力になる。思いやる心、愛する心をもってよいことをすれば、きっといい結果が出るよと子供達の背中を後押ししてくれます。
*「多様性」の重要性
理想をピュアに実現させようとすると、こんどは理想から外れた事柄を異端として排除する方向へ動き、世界は「多様性」を失う。そこから悲劇は始まります。
しかし、理想で硬直した眼魔世界を救うきっかけになったのは、眼魔世界では異端の感性を持ったアランでした。眼魔世界から排除されたアランが、それでもアデルへの愛情を捨てきれなかったため、タケルはアデルを最後まで見捨てなかったし、アデルは最期に家族から愛されていたことを理解できた。わずかに残された「多様性」が世界を救った。
だから、一見異端にみえても、無駄にみえても、社会の「多様性」は確保されるべきであると、この作品は眼魔世界を通して教えてくれています。
最近世間を騒がせている殺人事件は、犯人の「理想」を実現させるために「多様性」を否定する気持ちから起きていることが多いんじゃないかと思っています。で、Twitterなんかを眺めていると、犯人の「理想」に少なからず共感している人も多い。しかし、そういった「多様性の否定」が回り回って、最後には自分の首をしめるんじゃないかと危惧してます。
*命の意味
タケルは、最後に無限の命を持つ万能のヒーローを辞めて、有限の命を持つふつうの高校生に戻ります。そして、特別編ではタケルにはいつまでもヒーローであって欲しいと願うアユムに対して、タケルはこう答えています。
タケル「俺はアユムの力を信じている」
たぶんアユムはタケルの未来のこども。父、龍がタケルに眼魂を預けることで世代交代したように、タケルはアユムに、次のヒーローは君だよ、と世代交代しています。
ひとりの命は有限でちっぽけなものです。しかし、後の世代に気持ちを繋いでいくことで、命はムゲンに繋がっていく。世代交代することで、人の思いは新しい世代に形を変えて受け継がれ、新しい未来を紡いでいく。そうやって人間世界は目覚ましい進歩を遂げてきたし、よくなっていこうという想いを捨てないかぎり、これからも発展していくのでしょう。
こうして振り返ってみると、この仮面ライダーゴーストという作品は、いままで仮面ライダーという作品でみられた「異形の悲しみ」「同族殺し」といった悲劇性はなりを潜め、生の喜びや、人を信じる力、愛する喜びなど、ポジティブなメッセージを全面に押し出していたことがよくわかります。仮面ライダーという冠をつけた作品のなかでは、とても珍しい前向きな教訓に溢れた作品でした。
前年度までは視聴者にオトナも子供も巻き込もうと作り手が四苦八苦している面も多々ありましたが、「仮面ライダーアマゾンズ」というハイティーン視聴者向けの受け皿を作ったことで、気持ちよくニチアサをこども向けに振り切ることができた感があります。
が、眼魔世界の歴史を通しで書いてみてよくわかったのだけど、勧善懲悪のフォーマットに慣れている視聴者に、敵側にも元々悪意がなかったと説明するのが、ものすごく難しい。なんで3~4クールがあんなに気持ちがブツ切れになっていたのか、いまだにはっきり理由がつかめていないのですが、もしかしたら眼魔世界の説明のむずかしさが原因のひとつだったのかもしれません。
でも、私はこのゴースト、決して嫌いな作品ではないのです。うーん、「決して嫌いな作品ではない」って表現が悪かったのかもしれない。なんども感想の中で伝えていたとおり、私は大好きな作品ですよ。てか、製作サイドを見下してたり嫌いな作品だったりしたら、毎回日曜の明け方までうんうん唸って8000字前後のボリュームの感想を書いたりしませんって。ドライブも好きな部分とうーんと思う部分があったし、ゴーストもまた然り。どっちが上でどっちが下なんてありません。ドライブもゴーストも制作側の本気を受け止めてたから、こっちも制作側の意図を汲もうと本気で考えて、ぎりぎりまで粘って書いてました。そこが全然伝わってなかったのが、ちょっと心残り。言葉で気持ちを伝えるのって難しいなあとしみじみ感じました。語り口が下手なんでしょうね。まだまだ勉強ですね(50話でコメント下さった方、ありがとうございます。また後日コメント欄の方でお返事差し上げますね。本日は燃え尽きました)。
最後のおむすびを頬張るタケルの顔をみて、つられて笑顔にならない視聴者はいなかったでしょう。完全無欠のハッピーエンド。とても素敵なラストでした。
最後の笑顔の感想に代えて、糸井重里さんのコラム「今日のダーリン」2016年8月15日号から一部抜粋させていただきます。
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世界から見たら些細なことなのかもしれないけれど、
たったひとりやふたりの問題なのかもしれないけれど、
世界を震えさせる出来事が霞んでしまうようなことが、
ちっぽけかもしれない個人の「生活」のなかにある。
大きなことと小さなことに、優先順位をつけるとしたら、
大きなことを先にするのがいいとは、思う。
ただし、その大きなことというのは、
おそらく(小さなことに思われているような)
個人の「生きること」なのだ。
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タケルくん、最後に本当に素敵な笑顔をありがとう!
これにて仮面ライダーゴーストの感想終わりです。もし、これだけの駄文長文に付き合ってくださった方がいらしたら、感謝します。本当にありがとうございました。